ウエルト王国に内乱の兆しが現れたのは、王宮をサーシャ王女が逃亡してからだった。 王女は母妃の親書を携えマーロン伯爵の治めるヴェルジェを目指した。 正義派諸侯中
最大の実力者たる伯爵の挙兵を促すためである。 むろんコッダ宰相がそれを見逃すはずもなかった。 初動こそ遅れをとったが、彼の配下によって
王女一行は確実に追い詰められていった。
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(ラフィン、来てくれないかな……) サーシャはこっそり心の中で呟いた。 もちろんそれは希望的観測にすぎなかった。あるいは妄想のレヴェルかもしれない。 (わたしがこの場所にいるなんて、彼が知ってるはずないものね) (でも……わたしだって一応お姫サマ。その絶体絶命の窮地だもの。白馬の王子様が都合よく現れても良いのではないかしら?) (ううん、物語なら絶対そうなのに……!) ……無論こんなしょうもないことを本気で考えているわけではない。空想に耽って気を紛らわせることで痛みを誤魔化すためだった。 王女は足首をひどく捻挫していたのだ。
「んっ……くっ……」 足首に激痛が走る。どうにも堪えきれず、サーシャは苦悶の声を漏らしてしまった。涙が滲んだ。 (あ……) 慌てて横目でケイトを見る。忠実な守役の女騎士は追っ手を捲くことに神経を集中しているらしく、王女の声に気づかなかったようだ。サーシャはほっと吐息を漏らした。 ケイトには我慢すると告げた彼女だが、(もうダメかもしれない)と弱気になっていた。 それほどの疼痛だった。 この場に身を投げ出しそのまま倒れてしまえば、きっと楽になれるだろう。 そんな甘美な想像で地面がサーシャを誘惑する。 でも、それはできなかった。 ここでサーシャが足を止めてしまえば、ケイトも従うに違いない。 (そうなれば……) 想像するだけで胸が苦しくなった。 たとえ宰相の手の者に捕まっても、王女であるサーシャは国民の手前ひどい仕打ちはされないかもしれない。いろいろ利用価値もある。 けれど、ケイトは違う。 もしかすると王女の誘拐犯という冤罪を被せられ、極刑に処せられる恐れさえある。 そのことを考れば、逃げるのを諦めてしまうわけにはいかなかった。
ぜいぜいと肩で息をする。 こんなに長く走ったのは、恐らく生まれて初めてだった。 それも足首の捻挫というとびきりの悪条件の下で…… もはや涙なのか汗なのかわからないが、顔中がべとべとだ。 下半身の感覚が喪われてからどれくらいの時間が経ったのか。 すでに思考は濁っていた。 頭の中に白い靄がかかってきて……そして…… 「ゴメンね、ケイト……リュナンさま……」 サーシャは意識を失った。 失神する直前、遠くで騎馬の嘶(いなな)きを耳にしたような気がした。
(助けが欲しいと思った時は僕を呼んでみて。本当に必要な場合なら絶対サーシャのもとに駆けつけるから) 幼い頃、誰かがそんなことを言ってくれた記憶がサーシャにはある。 たぶんその子は物語の英雄を真似して軽い気持ちで言ったのだろう。 でも、当時の彼女は本気で彼の名を呟いたものだ。幼いなりに真剣に。 当然のことながら、彼が登場する場面はついぞ経験したことがなかったけれど。 ……いつしかそんな誓いがあったことさえ忘却していたけれど。 その時、サーシャは薄れゆく意識の中、呼んでいたのだ。 「リュナンさま」と。
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