ロファールとグラムドは親友だ。数年前までレダの地で辛く苦しい戦場をともに戦い抜いた戦友でもある。
いま、二人は一緒の湯に浸かっている。そばには酒壜の入った桶が浮いていた。
温泉で体を癒しながらしっぽりと酒を酌み交わす。堪えられない贅沢だと二人は考えているようだ。
「俺は時折グラムドが羨ましくなる」
ロファールが友人の杯に酒を注ぎながら、しみじみと述懐した。
「フ……また息子がいなくてつまらないという話か。お前には可愛い姫君がいるだろうに」
片頬に苦笑を浮かべつつグラムドが言った。
「だが、サーシャが相手では俺の剣技を仕込むこともままならないし、イタズラの仕方だって教えることができん」
ロファールはぶつぶつと愚痴をこぼす。
「だが、俺だってロファールが羨ましいよ。すくすくと美しく育っていく娘──リュナンなど男の子だから、これから糞生意気になっていくだけだ」
グラムドが答えた。
「ふん。隣の芝生は青く見えるということか」
ロファールが結論めいたことを呟く。グラムドも頷いた。
「ところでそのリュナン君はどうした。もう部屋で寝ているのか?」
きょろきょろと回りを見まわしてロファールが尋ねた。リュナンも一緒についてきていると思っていたらしい。
「さっき、サーシャ姫に『こんよく、こんよく』と言われて、手を引っ張られているのを見たぞ。まあ、両手の指で数えられる年頃の子供たちのことだからアレだが──十年後なら、ちょっと羨ましい光景かもな」
グラムドが笑いながら教えた。
露天風呂。混浴──
「ねえ、リュナンおにいちゃん」
湯煙の向こうからサーシャが呼びかけた。
「もっとこっちにきておはなししませんか? サーシャはたいくつです」
同じ湯に浸かりながら、リュナンとサーシャはずっと離れた場所にいる。リュナンが恥ずかしがって遠ざかったのだ。サーシャはまだ幼女と言っても良いような児童だが、リュナンにはそろそろ男の子としての意識が芽生えはじめているらしい。
「あのね、サーシャ姫」
リュナンがたしなめるように言った。
「若い男女が一緒のお湯に入るなんて、本当はあってはならないことなんだよ」
「でも、それでは『こんよく』のたちばがありません」
おかしそうにサーシャが言った。リュナンは「うっ」と言葉を詰まらせる。
「ともかくだ。離れていてもお喋りはできるのだから、それで良いだろう?」
「……」
返事が無かった。リュナンは一瞬不安になる。湯にあたってのぼせたのかと思ったのだ。
「姫?」
そろそろとサーシャのいる場所へ向かって動き出す。湯気の向こうにぼんやり姿が見えていた。
サーシャの背中は固まって見えた。
リュナンがもう一度呼びかけようとしたそのとき──
「きゃあああああああっ!!」
サーシャの悲鳴が轟いた。
何事が生じたのかとリュナンは慌てて近寄ろうとする。湯に足を取られてなかなか進めない。
「いやっ! ク、クモっ! クモなの!」
動転してサーシャが叫ぶ。よく見ると王女の首筋を這っている影があった。
確かに蜘蛛だ。それも握り拳より大きい。
「リュナンおにいちゃあんっ!」
サーシャは恐慌に陥りそうになっていた。それも当然だ。男の子のリュナンでさえ、その異形の姿を見たとき、体が凍りついてしまったのだ。彼は蜘蛛が苦手だった。
「……うむっ」
曖昧な返事をした後、リュナンの動きが止まった。彼自身も半ば恐慌状態だ。
(どどどうしよう!)
リュナンは怯惰に囚われてしまった。逃避衝動の虜である。
(父上たちを呼べば何とかしてくれるかも!)
そんな考えが天啓のように閃いた。
男湯で酒盛りしてるはずの父親たちの元へ走ろうとする。しかし──
「たすけて、おにいちゃん」
涙声で懇願するサーシャの顔を見て、リュナンの裡で何かが弾けた。
(卑怯者になっても良いのか?)
(──否!)
少年はおもむろに手を伸ばすと、サーシャの肌を這う巨大蜘蛛を素手で掴んだ。
一瞬、ざわっと悪寒が広がる。
我慢して手の中の蜘蛛を握り潰した。ぐしゃっと厭な感触が伝わる。
「あ、あ、ありがとう……!」
手の中の蜘蛛の死骸を想像して卒倒しそうになったリュナンに、サーシャがいきなり抱きついた。
そのまま少年にすがりついて泣きじゃくる。
恥ずかしがる余裕もなく、リュナンは幼いサーシャを慰める言葉を考えはじめた──