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厨房に入るとサーシャが眉を顰(ひそ)めていた。 「サーシャ様?」 いつも明るく元気な姫君のこんな不景気な表情は初めて見る。ラケルは心配そうに声をかけた。 「あ、ラケル。おはよう」 何やら別のことに集中していたらしく、呼ばれて初めてラケルに気づいたらしい。サーシャはちょっぴり目を見張ってラケルを眺めた。 「おはようございます……何をなさっておいでなのですか?」 ラケルはサーシャの手元を見て怪訝そうに首をひねった。王女は両手をボールに浸しながらウンウンうなっていたのだ。 「熱湯に手を入れてるのです」 サーシャが説明した。何かを堪えているような貌だ。 「それは見ればわかります」 ボールからは盛大に湯気が噴出している。 ラケルは返事してからハッと気づいた。 「……って、サ、サーシャ様っ。火傷をしてしまいます!」 焦って王女の腕を掴んだ。そのまま湯の中から手を引き出そうとする。 「熱っ!」 サーシャが小さく悲鳴をあげた。湯が掻き混ぜられて熱が循環したのだ。 「あっ、すみません!」 王女の悲鳴に驚いてラケルが手を離す。 「ううん、私こそ堪え性が無くて、ラケルをビックリさせちゃったみたいね。ごめんなさい」 サーシャは苦笑しながら湯から手を出した。その小さな手は赤くなっていたものの、火傷というほどではなかった。 「私はドジな人かも知れないけど、さすがに火傷しそうなお湯に手を漬けるほど能天気ではないつもりよ」 ラケルに両手を見つめられて、サーシャは恥ずかしそうに言った。 「一体何をなさってたのです?」 備え付けのタオルを渡しながらラケルが尋ねた。 「それはね」 サーシャは手を拭って水気をふき取ると、ラケルに向かっておもむろに両手を伸ばした。 「きゃん! 何なさるんですかー?」 いきなり腋(わき)の下に手を差し入れられて、ラケルはサーシャに抗議した。 「うふふ、お日様の手なのー」 サーシャがとても嬉しそうに自慢した。 「おひさまのて?」 ラケルが訊き返す。サーシャは拍子抜けした表情になった。 「腋の下では温かさがわからない? じゃあ、これならどうかしら」 そう言うと、サーシャはラケルの腋の下から手を抜き、今度は彼女の頬を両手でふわっと挟んだ。 「ひ、姫様?」 サーシャはにっこり微笑みながら、 「ね。お日様の手でしょ」 と同意を求めた。 「『ね』も何も…」 ラケルはサーシャの手に両頬を包まれながら尋ねた。 「『おひさまのて』って一体何のことでしょう?」 ラケルの疑問を聞いて、サーシャの目がきらめいた。教えたがり屋さんの瞳だった。
「なるほど、普通の体温より温かい手ですか」 サーシャの説明を受け、ラケルは感心したように唸った。どうやらサーシャが何かの本で得た知識らしい。 「確かに、温度の高い方がパン生地は発酵しやすいですよね」 王女の手を撫でながら、ラケルはクスッ笑った。 「でも、もうすっかり元に戻ったみたいですが」 「えっ」 驚いたサーシャが慌てて自分の手を頬に当てる。 すぐ残念そうな顔になった。 「……あーん、せっかく熱いのを我慢してお湯に漬けてたのに」 サーシャが悲しげに愚痴をこぼした。 「仕方ないですよ」 ラケルは王女の頭を撫でながら慰めた。 「『お日様の手』って、要するにそういう体質の人でないとダメということでしょう」 「うーん、つまり持主は『選ばれた人』ということなのね」 「そうそう。それに、姫様のはどう考えても付け焼刃以上のものではありませんし」 「つけやきば?」 「はい。まずは普通にパンを作る技術を身につけるべきだと思いますよ。特殊技能に頼るのではなくて」 ラケルがお説教調で言った。王女は黙って耳を傾けている。 「妙な喩えかもしれませんが──どんなに魔力の素養が高くても、呪文を知らなければ魔法は使えない。それと同じだと思うのです」 「大切なのは地道な努力か…それもそうね」 サーシャは感心したように頷いた。ラケルも微笑する。王女のこのように素直な性格は得がたい美質だと思うのだ。 「では、ラケル先生。本日もお料理の教授、お願いします」 改まった口調でサーシャが言った。
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